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乳腺外科医のわいせつ事件について考察してみる

2016年に医師が乳癌手術直後の女性患者の胸をなめたなどとして準強制わいせつの罪で逮捕・起訴された事件は、2020年7月13日、高裁で逆転有罪となり懲役2年の判決が下された。

検察側は「極めて悪質」「被害者の処罰感情は厳しく、社会的影響も大きい」などとして懲役3年を求刑。弁護側は、女性の訴えは麻酔の影響による「せん妄」がもたらした「性的幻覚」などと主張して無罪を主張していて、地裁では無罪の判決だった。

事件の経緯

事件の発覚

2016年5月10日、東京都足立区内の病院で右胸の腫瘍を切除する手術を受けた30代女性患者のA子さんが病室に戻った後、主治医の乳腺外科医からわいせつな行為を受けた、と知人にLINEで連絡。その知人が警察に通報した。地元警察署の警察官が病院に駆けつけ、女性の左胸から微物を採取するなど、刑事事件としての捜査を始めた。

事件の争点

2016年8月25日、警視庁は女性の主治医でこの病院の非常勤医師(逮捕当時40歳)を逮捕した。医師は一貫して否認。起訴後も身柄拘束されたまま、同年11月30日に東京地裁(大川隆男裁判長)で初公判が行われた。12月になって医師は保釈となり、裁判所は「期日間整理手続」を開くことを決めた。

 期日間整理手続とは、争点を絞り込んだり証拠を整理するための公判準備手続き。14回にわたる期日間整理手続を非公開で行った後、大川裁判長は「争点は事件性である」とした。つまりわいせつ行為が本当にあったのか否か、だ。そして、具体的には次の2点を「実質的な争点」とする書面をまとめた。

争点1 A子の証言の信用性

麻酔覚醒時のせん妄の影響の有無およびその程度

争点2 DNA型鑑定およびアミラーゼ鑑定の信用性

A子の左胸から採取したとされる付着物に関する科捜研の鑑定に信頼性や照明力があるか

2016年9月10日に再開された公判では、この争点整理に従って、まずはA子さんやその知人、母親、手術に立ち会った医師や病室を担当する看護師などの事件関係者、続いてDNA鑑定を行った科捜研研究員や法医学者、せん妄に詳しい医師など専門家の証人尋問が3か月の間に集中的に行われてきた。

被害者の過剰な処罰感情

A子さんにとっては、被害は「現実」であり、今なお強烈な被害感情を抱いている。裁判では自身が証言するほか、被害者参加制度を利用し、論告直前に自ら法廷で意見陳述も行った。そこで、否認する被告人を激しく非難。医師としての仕事を続けていることについても「性犯罪者に女性が胸を無防備にさらされている」などと怒りをあらわにした。その最後に「医師免許剥奪はもちろん、今まであなたが楽しんだ分、長い長い実刑判決を望みます」と強い口調で求めるなど、満席の傍聴人が息を飲むほどの峻烈な処罰感情を表明した。

検察の言い分

検察側は論告の中で、A子証言は科捜研の鑑定結果なども整合し、被害状況を語った内容も自然かつ具体的として、「十分信用できる」と強調。「虚偽証言の動機もない」として、信用性があると主張した。

 一方、術後のA子さんの状態を説明している病院の医師や看護師はすべて「虚偽の証言をする動機がある」と論難し、「せん妄」に関する専門家証言も、病院関係者の供述に基づいて「恣意的に判断している」などと批判。被害の訴えは「せん妄による性的幻覚ではない」とした。

弁護側の言い分

これに対し弁護側は、A子証言について、病院関係者らの証言に基づき

・病室に戻ってから痛みを訴えことを覚えていない

・何度もナースコールをし、その都度看護師がベッドサイドまで来てたことを覚えていない

・看護師から検温・血圧測定などをされたことを覚えていない

・検温しようとした看護師に「ふざけんな、ぶっ殺すぞ」と言い、それも記憶にない

・大声で叫んでいるのを同室の患者が聞いているが、それも覚えていない

などの点を指摘。専門医の証言やせん妄の診断基準を引用し、「『乳首を舐められた』などの訴えは、術後せん妄状態下での幻覚だった可能性が高い」と主張した。

ずさんな科捜研の鑑定

争点2で信用性が問われている科捜研の鑑定は、A子さんの左乳首付近を警察官が拭き取ったガーゼ片を調べたもの。鑑定した科捜研研究員は、被告人のDNAが大量(1.612ng/μl)に含まれる唾液及び口腔内細胞が検出された、と証言している。

 この鑑定が信用できるかどうかは、本裁判の最大の争点と言える。検察側は、採取や保管に関わった警察官らや鑑定を行った研究員に加え、アメリカに留学中の元科捜研研究員を証人に立てた。

 論告の中で検察側は、

1)女性警察官がA子さんの左乳首からガーゼで付着物を採取し、直ちに滅菌バッグに入れて封印し、別の警察官が鍵付き冷凍庫で保管し、2日後に科捜研に運んでおり、採取、保管、移動は適正になされていた

2)科捜研に採取物が持ち込まれた時点では、被告人の口腔内細胞は未だ採取されておらず、資料の混同やコンタミネーションはなかった

3)鑑定を行った科捜研研究員は、経験豊富でDNA型鑑定の資格も取得しており知識や技術、技量は充分

などとして、この鑑定の信用性を強調した。

これに対し弁護側は、最終弁論で「鑑定には客観的裏付けも再現性もなく、科学的信頼性がない」と力説した。

DNAに関しては、本件ではDNA型よりその量が問題になっている。大量のDNAを検出したのは、医師が舐めて口腔内細胞が含まれた唾液が付着したため、というのが検察側の見立てだからだ。

 ただ、1.612ng/μlという数字は、鑑定を行った科捜研の研究員が作業の過程をメモしたワークシートに書かれているだけ。DNA鑑定の際の増幅曲線や検量線などのデータは廃棄されており、確認ができない。

 しかも、ワークシートは鉛筆で記載され、少なくとも9カ所、消しゴムで消して書き換えた形跡があった。弁護側は、ワークシートは実験ノートに当たり、ボールペンなど書き換えができない筆記具で書くのが常識として、科捜研の対応を批判している。

 鑑定で使用したのはガーゼから抽出したDNA抽出液の一部。その残りが保存されていれば、再鑑定も可能だが、これもすでにない。研究員は残液を「2016年の年末の大掃除の時に廃棄した」と証言している。

 この時期には、被告人が裁判で否認していることが明らかになっており、期日間整理手続が行われることも決まった。鑑定人が証人として呼ばれ、裁判で証拠が厳しく吟味されることは、十分予想できただろうに……。

 弁護側は意図的な廃棄である、と批判。DNA抽出液の廃棄は、「資料の残余又は鑑定後に生じた試料の残余は、再鑑定に配慮し、保存すること」とする警察庁内部通達に反しているとも指摘した。

そして、再現性がなく、実験ノートの記載も不適切だったSTAP細胞事件を引き合いにして、科捜研鑑定の科学性に大きな疑問符をつけた。

 弁護側証人となった法医学者は、「このような形で実際の刑事鑑定の分析がされているということに、少し背筋が凍るような気持ちになった」と証言している。

 また、微物の採取状況やアミラーゼ鑑定について、写真を残していないことも弁護側は問題視した。アミラーゼは消化酵素の一つで、唾液のほか、尿、血液、鼻水などに含まれる。試薬を溶かした寒天の上に、A子さんの左乳首付近をぬぐったガーゼ片を置いて、色の変化を見る検査を行っているが、写真が1枚もなく、鑑定結果の裏付けがない、と指摘している。

 さらに弁護側は、被告人のDNAやアミラーゼがA子の左乳首付近に付着する機会は多くあったと主張。具体的には、手術前に洗う前の手で左右の胸を入念に触診したことや、2人の医師が手術台に横たわるA子さんをはさんで、切開する範囲を当初の予定より小さくするなどの検討した際に、つばの飛沫が飛んだ可能性などを挙げた。

そもそも事件が起こりうるのか

弁護側は最終弁論の中で、争点1に関連し「事件は状況的にありえない」とも主張している。

裁判でA子さんが訴えた被害は、一瞬舐められたといった程度のものではない。

「乳首のあたりを、すごい吸い付くように、かぷっと舐めたり吸ったりして、よだれとかもべちょべちょですごく気持ち悪かった」

 しかも舐められていた時間は「5分以内」というのだから、それなりの時間続いたようだ。A子さんがナースコールで呼んだ看護師が来ると、医師は逃げるように出て行った、という。

 その約30分後に、医師は再びベッドサイドにやってきて、今度はA子さんの胸を見ながら、手をズボンの中に入れてマスターベーションをしていた、とも証言した。

一方、弁護人が指摘する「状況」とは、たとえば次の諸点である。

・事件があったとされるのは、4人部屋で当日は満床だった

・A子さんのベッドは出入り口のすぐ横で、しかも入り口の扉は常時開け放たれていた

・隣のベッドとは1メートルしか離れておらず、遮るのは薄いカーテンのみ。しかも、そのカーテンは床から35センチまでしかなかった

・病室には、医師や看護師などが頻繁に出入りしていた

・A子さんはナースコールを手にしていて、実際に45分ほどの間に7、8回鳴らし、その都度担当看護師がベッドサイドに来ている

・外科手術後の患者の皮膚には血液や体液が付着しており、感染リスクを知っている医師が舐めるなどというのはありえない

さらに、医師が着ていた手術衣ズボンのウェストは、ゴムではなく紐で結ぶもので、手を入れて自慰行為をするのは不可能。ひもをほどけばズボンが下に落ちてしまう。証言通りの行為は物理的にありえない、と弁護側は指摘した。

裁判の結果

男性外科医は2016年8月25日に逮捕され、105日間勾留された。検察は懲役3年を求刑したが、東京地裁(大川隆男裁判長)は2019年2月20日、男性外科医に無罪を言い渡した。一審判決では、実質的な争点を(1)被害を訴える女性患者の発言の信用性、外在的な補助事実に関する争点として、被害を訴える女性患者の術後せん妄の有無および程度、(2)DNA型鑑定およびアミラーゼ鑑定の信用性――と整理し、いずれも弁護側の主張を採用した。

 控訴審は2020年2月4日に始まり、これまでに3回の公判が開かれ、女性患者の術後せん妄の有無を巡って2人の精神科医に対する証人尋問が行われた。当初は4月15日に判決言い渡しの予定だったが、新型コロナウイルス感染症の拡大を受けて延期されていた。

判決後、記者会見をした男性医師は「怒りと憤りを覚えている。やっていないし、無罪です。一度失われた生活を(一審無罪で)取り戻したが、再度、これが壊されることに憤りを覚える。(取り戻した)生活が守られるように戦っていく」と訴えた。

不可解な判決理由

東京高裁で担当していた朝山芳史裁判長が定年退官したため、 朝山裁判長が作成した判決文を細田啓介裁判長が代読した。

控訴審判決では被害女性A氏の証言について、「具体的かつ詳細であり、特に、わいせつ被害を受けて不快感、屈辱感を感じる一方で、医師が患者に対してそのようなことをするはずがないとも思って、気持ちが揺れ動く様子を極めて生々しく述べている。上司に送ったLINEのメッセージの内容とも符合する。Aの証言は、本件犯行の直接証拠として強い証明力を有する」と判断した。

 争点となったせん妄については、A氏が「ふざけんな、ぶっ殺してやる」と発言したとする柳原病院の看護師の証言について、「Aに不利益な病院関係者の証言であること」とし、カルテに「術後覚醒良好」との記載があることから、「せん妄に陥っていたことはないか、仮にせん妄に陥っていたとしても、せん妄に伴う幻覚は生じていなかったと認められるから、このことがAの原審証言の信用性の判断に影響を及ぼすことはないというべきである」とした。

 控訴審公判で取り上げられなかった科学鑑定については、「本件アミラーゼ鑑定、本件DNA型鑑定及び本件DNA定量検査の数値等の証拠は、本件犯行を一定程度推認させるが、それ自体で本件犯行を証明できるものでなくても、Aの原審証言の信用性を支え、これと相まって、Aが本件わいせつ被害にあったこと(事件性)を立証するものであれば足りる」と整理した。その上で、「科学的な厳密さの点で議論の余地があるとしても、Aの原審証言と整合するものであって、その信用性を補強する証明力を十分有するものといえる 」として、総合的に判断すれば、本件の事件性については、合理的な疑いを容れない立証があると説明した。

 最後に「手術後の麻酔から完全に覚めていない上、被害者が被告人による診察であると信頼していた状況を利用した犯行であり、態様も甚だ 良くない。被害者が受けた精神的、肉体的苦痛は大きく、その苦痛は、現在まで継続していると推測される。被告人は、原審以来犯行を否認して、反省、謝罪の態度を示しておらず、もとより慰謝の措置も一切講じていない。そうすると、被告人の刑事責任は到底軽視できるものではなく、被告人がこれまで医師として相応の活動をしてきたことや、前科前歴がないことなどの、被告人のために酌むべき事情を考慮しても、主文の実刑に処するのが相当である」と締めくくった。

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